世界を斜め下からながめてみるのも悪くないのです。

人とは違う感じ方。違うからこそおもそろい。

世界を斜め下から眺めるのも悪くないものです。

友人のすすめでブログをはじめることにした。
じぶんの価値観をひとつずつ整理していこうと思う。

テーマに悩みながら、ぼんやり
Facebookをながめていたところ、よくある記事のよくあるシェア、それに対するありがちな感想にありがちなコメントがついている。

まさによくあるありがちな展開。

うーむ。

もやもや。
ぽりぽり。

ちょっとかいてみようと思う。

まずは、よくあるありがちな展開というのを説明させていただきたい。

1.障害者に対する差別、そのニュアンスを含む発言にフォーカス。

2.シェア。および私的な見解(多くの場合で、悪の所在設定)

3.コメント欄が一方通行。「わかります!かなしいですね。」「なんにもわかってないやつおおすぎー。」「逆にこいつらかわいそうだわ。」

うむ。

もやもや。

一つ一つ整理したい。

まずそもそも社会はどこを目指すのか。
個人的には「共存」一択だと考えている。
すくなくとも「平等」は違うとおもう。

多くの場合で自らの権利を主張する障害者は自分たちへの配慮の合理性を説き、それが、平等であり、社会として当然の義務であると叫ぶ。

主張するのはかまわないし、そういう考え方を否定する気は更々ない。

ただ、気にくわないのは、障害者代表のような顔をして、「我々障害者は,,,」

,,,,,,ん?

障害どうこうより前に、個人が主張できるのはあくまで主観の域をでないことを自覚するべきだ。

とくに「なりたくて障害者になるひとなどいない。」というのが個人的にはとても腹立たしい。どこの機関がどのくらいの調査規模で行った調査の結果なのかしらないが、
少なくともそこにわたしの意見は反映されていない。

私自身が好んで障害者になったという意味ではない。

ただ、私は自分の生き方に誇りを持っているし、障害者であること、車椅子で生活していることは武器だと考えている。

障害者としてどうあるべきかではなく、自分がどうありたいかの話だ。

自分の回りには自分なりの方法で障害を着こなしているカッコいい人たちがたくさんいる。

車椅子のお笑い芸人だったり、大学で自ら支援サークルを立ち上げてたり、耳の聞こえない道化師や、哲学者がいたり。

「障害」
いまの日本の社会におけるその立ち位置を理解し、
自分の中にどんな意味合いを持たせるのか。

それによって、見える世界は変化する。

批判や誤解を恐れずに言うのであれば、「障害」は「材料」であり、煮るなり焼くなり揚げるなり蒸すなり、可能性は無限大である。

障害者が、理解者だけの小さいコミュニティで健常者をつるしあげることは、ほんとうにもったいないことだ。多くの場合で、批判は次のステップへと繋がらない。溝は深まる一方だ。

自分が過ごしやすいように社会を変えるのか、

責任の置き場をどこかにぶつけるのか。

どれもこれもひとつの選択肢として、他人がどうこういえるものではないのかもしれないが、客観的にみて、明かな矛盾点は、あらためていちど考え直してみるべきだ。


伝えたいなら伝え方を考える必要がある。


わたしは自分の描く、理想の自分像を
いつもおいかけている。

要するにカッコつけて生きているのである。

車椅子に乗っているからこそできるカッコつけたかたがあるし、そこに関してはもはや独壇場でありパイオニアになりうる。

マイノリティだからこそのレアリティをうまくつかっていきたい。

とはいうものの、それは現時点における自分なりの答えにすぎず、人生の通過点におけるひとつの解答例にすぎない。

ただ、それぞれ違う背景がある人間同士、異なる価値観を知ることが、自分の人生を豊かにしていることは間違いないと、自信をもっていえる。

すべてをうけいれるわけではなく、互いに興味をもつこと。

相手の発言が理解できないときの返事を「わからない。」から「あ、それおもしろい!」に変えるだけでも見えなかったものがみえるようになる。