世界を斜め下からながめてみるのも悪くないのです。

人とは違う感じ方。違うからこそおもそろい。

"こなす"が"できない"問題について

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今いる会社のビジョンが好きだ。


今の会社にいる人たちが好きだ。


何かしらの形で役に立ちたいと思うし、

自分に与えられた目の前の仕事をこなすことが今の僕にできる役に立ち方だと思っている。

自分のスキルとか強みとかそんなんは後でよくて、

"求められていることをこなすこと"なくして次のステップがないのは理解しているし、

だからこそやりたいか否か、にかかわらず"こなすこと"に専念しようとする。



が、しかし、いま、まさにぶつかっているのは、

"こなすこと""できない"問題である。



僕は車椅子に乗っているので歩けないことが障害なのかな、と思われることがあるが、それは間違いである。

"個人的には"(これ大事)歩けないことは別に障害でも何でもない。

目立つの好きだし。

僕にとってパーキンソン病という状況が僕にもたらす最大の障害は、体調の予測ができないことである。

今カラオケで飛び跳ねている2時間後自分で起き上がれず、息するのがやっとになってたりするリスクが常について回るのである。

この体調の日内変動が激しく予測が難しい、という状況は"ある感情"が存在するかどうかで生きづらさのレベルが桁違いである。

その感情というのは


"動けないところを見られたくない"


これだ。


常に動けなくなる可能性同伴のマイライフにおいてこの感情は非常にじゃまくさい。


人は得てして自分のいいところを見てもらいたいものだったりするものだから、しょうがないといえばしょうがないけれど、


本質を言ってしまえば僕はかっこよく生きていたいわけです。


だからこそ動ける時の生き生きしている姿でいたいって思っていたわけなのだけれど、


よくよく考えてみると、

動けるから生き生きしてるのと、

動けなくても関係なく生き生きしてるのだったら僕の思う"カッコいい"は圧倒的後者だったわけです。


単純なのよ。ぼく。


話は最初にもどるけれど

"体調が予測ができない"は働くのにさいして

けっこうハードモードなわけです。  


昨日できていた"こなすこと"が明日もできるかはわからないわけで。まーここまではしょうがないとして、"動けないからできなかった"は抗えないけれど、わかりやすいからよしとしてだよ。


ここからが、最近発見した、衝撃のびっくりサプライズなのです。


"うごけるときにできない"


ん?何なにそれ。ただのできないやつじゃん。


ざっくり説明すると、パーキンソン病は頭の中のドーパミンっていう体を動かす命令を出す成分が足りていない状態で、代わりになる成分を服薬にて補っているかんじなのです。

そんでもってこのドーパミンってやつが生意気なほど繊細ちゃんでございまして、ちょっとバランスが崩れると"集中"とかいう概念をどっかに忘れてきやがるわけなのです。


仕事において"集中できない"っていう状況に理解をえるのはこれまた修羅の道でござる。

"動けないからできない"✖️"動けるときは集中できない"


うん。君はなにができるんだい。


難易度鬼だわさ。わさわさ。


でも一緒に考えてくれる人がいて

自分とむきあうチャンスをくれることに

感謝しかない。


だから僕は"できない"を言葉にしなきゃいけないし、できるフリをしてる場合じゃない。


わかってるよ。だってそんなのカッコ悪いもん。


単純なのよ。ぼく。。





ちなみにぼくが感じてる動ける時のできなさがまんまこれ

https://h-navi.jp/column/article/279


仮説でしかないけどドーパミンが増えすぎて制御できない状態なんじゃないかなと思ってる。ちなみにちなみに僕の場合はこの、"読めない状態"の時に"読もうとすること"は死ぬほどしんどい。