少年が車椅子のひとをみて、かわいそうだとかんじた。という事実
とある夕暮れ時の話である、
はじめて訪れる場所だったので、ぶらぶら散歩しながら帰ろうという、私のなかではよくあるシチュエーションである。
向かってみぎてに小さな公園と小学生がちらほらと。
あー。いい雰囲気ー。
素敵な気分。ここまでは。
小学生がわたしにきづく。
あ、車椅子だ。
"かわいそっ"
ん?
まてーい。
あまりに自然にいうものだから、通過してしまった。
知り合いの女の子もおなじようなこといわれたっていってたな。
これか。
なるほど。なるほど。
こんなに楽しんで生きてるのに。
こんなにきもち良さそうに風を切っているのに。
彼の目には「かわいそう」とうつったのか。
すごいさわやかにモヤッとー。
ここから個人的な分析と今後の展望である。
登場人物はふたり。少年と、さわやか車椅子野郎(髭)。
今回のケースでは、被害者も加害者もおらず、少年の発信した"感想"に、髭車椅子野郎がちょっとだけもやーっとしだけなのだ。
なぜ、もやーとするのかを考えてみたところ、
あ、
そういえばツッコミできてない!!
"いやいや、 かわいそっ!"じゃねーし。
のタイミングのがしたー。
ツッコミそこなってるー。
つまり、"かわいそう"に違和感を感じながら、とっさに伝えられなかったことにモヤモヤしているのである。
そして、自分がかわいそうではないことに確信を持っているのに、少年にそれを伝
える言葉に自信がないのだ。
あらためて考えてみると少年はなにもまちがっていない。
ほんとの意図がどこにあるかは別として、彼は自分の感じたことを声に出しただけだ。
そして、彼が発信した"かわいそう"はそもそも悪口ではない。
むしろ、同情に基づく思いやりの言葉だ。
髭野郎が自分をどのように見てほしいかとは関係ない。
結果てきに少年が"かわいそう"と判断したことが、予想外で不本意であった、というそれだけこと。
それは、つまり少年は自分が歩けるという状況、当たり前のことがありがたいことだと、気づいていると、とらえることができているのかもしれないし、
そもそも学校での道徳教育が、困っているひとを見かけたら自分から声をかけましょう、とか優先席、エレベーターは必要としている人に譲りましょう、のように、相手が"自分よりかわいそうかどうか"で判断させるものになっている節がある。
考えれば考えるほど障害者側の主張の矛盾がきになってしまうし、もっともっと、いろんな角度から議論されていく必要があるとおもう。
そんなこんなを考えながら次おなじ場面にあったらどうしようか。作戦ねりねり。
少年を論破しても意味がない。
一緒にかんがえたいのだ。
少年よ。
きっかけをありがとう。
いろんな人に考えてほしいし、
いろんな人と話したい。