世界を斜め下からながめてみるのも悪くないのです。

人とは違う感じ方。違うからこそおもそろい。

理解できないと知ろうとしないはちがう。

少し前に書いた内容について。

http://nambucchi.hatenablog.com/entry/2015/06/11/193342

やはり各分野さまざまな議論がなされている。

あらためて個人的な考えをまとめておこうと思う。

まず、手記を残すことに関しては肯定派である。

よい悪いに関わらず、これからの社会にとって必要不可欠な材料なのではないかと考えている。

最近、福祉の業界では「当事者研究」という分野が注目されつつある。

他者からの客観的分析ではたどりつけない、本人の感じかたや、思考回路を本人の選んだ言葉で記録することで、それまでは想像の域を脱することができずにいた、マイノリティ研究にひとつひとつ確実なデータをストックしていくことができるのである。
この分野で最近注目をあつめているひとがいる。

東田直樹

跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4781612458/asahicom-book-22

彼がこの本で発信したことは、それまでの予想を裏切り、いい意味でたくさんの常識を覆した。

我々は自分達の見えている範囲がどれほどせまいものなのかを、自覚する必要があるだろう。

今回のケースではさまざまな議論があるなかで、数少ない肯定派は、加害者を「自分事」としてとらえているのだと思う。

彼の心理を読みとかない限り
予防にも対策にもつなげることができない。

理解できない思考回路
理解できない感情反応

理解できないとしたうえで
彼らとの共通言語を探す必要があるのではないか。

それは、まぎれもなく私たち自身の未来を守るすべに他ならない。



酒鬼薔薇」手記、一部書店で販売せず 「啓文堂書店」遺族感情に配慮で賛同の声スポーツ報知 6月16日 7時5分 

http://news.yahoo.co.jp/pickup/6163720

元少年Aの手記「絶歌」が物議、著名人の意見様々
日刊スポーツ 6月15日 21時5分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150615-00000064-nksports-ent

今日のおわりに。

帰宅ラッシュ。
満員電車。
限られた空間のなかに
明らかに詰めこみすぎたその箱に
あとどれだけ疲れた顔を詰め込めば気がすむのだろうか。
隣のひとと目があって
とっさに目をそらして
目のやり場に困って
意味もなく中吊り広告ぼんやりながめて。
誰かに足を踏まれて
いらっとする間もなく
どこからともなく舌打ちがきこえて
どうにもやるせなくなって
こみ上げてきた怒りは
いつのまにやらため息になってこぼれたりして。

いやいやいや、ちょっとまってよ。
なんかちがくない。
誰も悪くないのに。
みんな一日頑張ったのに。

目があったその瞬間、
気まずくなって目をそらす前に
なにか言えたら
その言葉をみつけられたら

帰り道の景色が変わるかもしれない

少しだけ明るくなるかもしれない。

難しい言葉じゃない。

今日の終わりに


おつかれさま。

キヅケヨオトナ。コドモラワミテルゾ。

一方的な批判ほど 無意味なことはない。 思い通りにならないことを暴力で解決しようとすることほど愚かなことはない。

数で決を取るのがいまの日本のシステムだ。
極端な話をすれば、少数派を殺して多数派の生活を豊かにすることが、ルール上可能なのだ。
ただそこでそれをさせないのは多数派の良心に依存していることに他ならない。

つまりは、それぞれが自分の利益しか考えられないのなら、いまのルールではマイノリティの主張は存在しないも同然ということになる。

少数派が、力で多数派に挑むのは、必然的に正当防衛なのかもしれない。
そのまま放っておいたらルール上どんなひどい扱いも正式に決まってしまう恐れがある。

ただし、状況かどうあっても、伝える手段に暴力を選んだら、あとは崩壊へまっしぐらだ。

そして「こうする他にどうしようもない。」

にいたってしまったとき、その先にあるのは戦争だろう。


こうするより他ない。

というのはまちがいだ。

そうしたところで、どうにもならない。

始まってしまったその争いが終わるプロセスは2パターン。

多数派が圧倒的な力の差を見せつけること。

もしくは

多数派と少数派が逆転するほど多数派を減らすこと。

暴力は「話し合いでは無理だ。」 の宣言である。

それぞれの意図も
その手段に至る過程も

詳しいことは分からないし

なにかを犠牲にしなければ
守れないものがあるのかもしれない。

ただ、多数派による数の暴力にあらがうため

少数派が選んだ手段が

一個人を傷つけたこと。

その事実は変わらない


ありがとうも
ごめんなさいも
いっしょにがんばろうも
できない大人が

子供に何を教えられるのだろう。

あの映像をみた子供は何を思ったのだろう。

そのあとの一言は子供たちの未来にどんな意味をもつだろう。


気付けよ大人。
考えろよ大人。

あなたたちが我々の未来のために
どれ程のことをしているかはかりしれないし、
なにもしらないなにもしてない奴らに叩かれかながら、今日も走り回ってくれていること、

それにたいして感謝を伝えることさえできていないことは、明らかにおかしいことだ。

ただ、いまの状況は子供たちには見せられない。

なにも偉そうなことは言えない。
一方的な批判 もしない。

個人として、
今回の手段は間違っていると思う。

そして個人の願いとして


子供たちに見せられる話し合いをしてほしい。

ほんとはこの国を少しでもあかるく、少しでも元気な国にしようという、ハッピーな
会議でしょ。



気付けよ大人。
笑えよ大人。

好きも嫌いもだいたい気のせい。

この時期はなんだか息苦しい。
じめじめするし。
だから梅雨はきらい。

夏は暑くて、セミがうるさいからきらい
静かな夜を奪わないでください。

日本はみんな必死になって空気をよもうとするから生きづらい。
読まないで吸えよ。

あ、これ、空気読めてませんね。
ごめんなさい。


,,,きらい。

わたしは自分勝手で、おちつきがなくて、大言壮語なじぶんが,,,

うん。

ひとはたくさんのものを嫌って生きているし、すべてのものを嫌いになることは難しくない。

でも多くの場合でその嫌いは本質ではない。

だって梅雨は嫌いじゃない。

じめじめは嫌い
じめじめは梅雨のなかの1要素でしかない。

梅雨にしかない色があり、
梅雨にしかない音があり、
梅雨にしか咲かない花が咲く。

うつくしい。

ただ、強いていうならばじめじめしてすごしにくいところは少し辛いかな。ってことだろう

夏も
日本も
自分自身も
そのものが嫌いなんじゃなくて

嫌いな要素があるってだけ。
だけども要素がひとつあれば、それを嫌いってことにしてしまえる。

でも逆にいえばどんなに嫌いなものでも、たったひとつの要素を見つけることができれば、好きってことにしてしまえるじゃないか。

そして、人のよいところを見つけようとしてる人はそれだけでも素敵だ。

そうかんがえると、皆に愛され皆を愛することは、難しいことではないのではないかと。

それが正しいか分からないし、
そういう安直な考え方が嫌なひともいるとおもうが、

あくまで、個人的な願いとして、理想論と笑われるような絵にかいたような平和な世界へのひとつの要素としてほこりをもって死んでいきたい。

悔しいけど説明できない事実。

問題の本質はどこか。

なぜひとをころしてはいけないのですか。

わかる人がいたら教えてください。

その答えがちゃんと説明できることができたのなら、

彼は人を殺すことはなかっだろう。

事は実にシンプルかつ複雑であり、

彼が服役してたどりついた答えは、

「わからなかった。」

それがすべてだろう。

彼の思考回路

それが間違っていることを

誰も説明できないし、

それに気づいている人は

少なくないだろうし、

表現する自由が許されるとか
許されないとか

そういう次元の話ではない。

彼と同じ思考をもった人間は

人類歴史上、一定の確率で現れるだろうし

むしろ、共感を覚える自分に押しつぶされそうな人は現在も存在するのではないか。

たまたま目の前の少年が、最後に相談したのがあなたで、

なぜひとをころしてはいけないのですか。

とあなたに問う。

あなたは答えられるだろうか。

答えなければ少年はやるだろう。

過去に実際に同じ道を通ったものが

わからない。と、

でも絶対にやるな。と、


そこにどれだけ価値があることか。


そうでなければ、

罪のない人間を殺してはいけないこと

を理解できない人間は、

罪のない人間を殺す前に

殺さなければならないか。

そこで、まだかろうじて罪のない人間を

殺さなければならないのは,,,

我々が殺してはいけないことを

説明できないからに他ならないし、

もっといえば、

いま、我々が目をそらせたことで

一人死ぬのだ。

暗黙の了解が理解できるマジョリティの
秩序のために

純粋な疑問をもってしまった
かなしき少年は犠牲になるのだ。

正解だろうか。

正義とはなにか。



彼を擁護するわけではないし、
遺族が嫌なのだから
出版の中止、回収は当然だ。

ただ、読むべき人はいるはずだ

問題の本質はどこか。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150616-00000008-jct-soci

世界を斜め下から眺めるのも悪くないものです。

友人のすすめでブログをはじめることにした。
じぶんの価値観をひとつずつ整理していこうと思う。

テーマに悩みながら、ぼんやり
Facebookをながめていたところ、よくある記事のよくあるシェア、それに対するありがちな感想にありがちなコメントがついている。

まさによくあるありがちな展開。

うーむ。

もやもや。
ぽりぽり。

ちょっとかいてみようと思う。

まずは、よくあるありがちな展開というのを説明させていただきたい。

1.障害者に対する差別、そのニュアンスを含む発言にフォーカス。

2.シェア。および私的な見解(多くの場合で、悪の所在設定)

3.コメント欄が一方通行。「わかります!かなしいですね。」「なんにもわかってないやつおおすぎー。」「逆にこいつらかわいそうだわ。」

うむ。

もやもや。

一つ一つ整理したい。

まずそもそも社会はどこを目指すのか。
個人的には「共存」一択だと考えている。
すくなくとも「平等」は違うとおもう。

多くの場合で自らの権利を主張する障害者は自分たちへの配慮の合理性を説き、それが、平等であり、社会として当然の義務であると叫ぶ。

主張するのはかまわないし、そういう考え方を否定する気は更々ない。

ただ、気にくわないのは、障害者代表のような顔をして、「我々障害者は,,,」

,,,,,,ん?

障害どうこうより前に、個人が主張できるのはあくまで主観の域をでないことを自覚するべきだ。

とくに「なりたくて障害者になるひとなどいない。」というのが個人的にはとても腹立たしい。どこの機関がどのくらいの調査規模で行った調査の結果なのかしらないが、
少なくともそこにわたしの意見は反映されていない。

私自身が好んで障害者になったという意味ではない。

ただ、私は自分の生き方に誇りを持っているし、障害者であること、車椅子で生活していることは武器だと考えている。

障害者としてどうあるべきかではなく、自分がどうありたいかの話だ。

自分の回りには自分なりの方法で障害を着こなしているカッコいい人たちがたくさんいる。

車椅子のお笑い芸人だったり、大学で自ら支援サークルを立ち上げてたり、耳の聞こえない道化師や、哲学者がいたり。

「障害」
いまの日本の社会におけるその立ち位置を理解し、
自分の中にどんな意味合いを持たせるのか。

それによって、見える世界は変化する。

批判や誤解を恐れずに言うのであれば、「障害」は「材料」であり、煮るなり焼くなり揚げるなり蒸すなり、可能性は無限大である。

障害者が、理解者だけの小さいコミュニティで健常者をつるしあげることは、ほんとうにもったいないことだ。多くの場合で、批判は次のステップへと繋がらない。溝は深まる一方だ。

自分が過ごしやすいように社会を変えるのか、

責任の置き場をどこかにぶつけるのか。

どれもこれもひとつの選択肢として、他人がどうこういえるものではないのかもしれないが、客観的にみて、明かな矛盾点は、あらためていちど考え直してみるべきだ。


伝えたいなら伝え方を考える必要がある。


わたしは自分の描く、理想の自分像を
いつもおいかけている。

要するにカッコつけて生きているのである。

車椅子に乗っているからこそできるカッコつけたかたがあるし、そこに関してはもはや独壇場でありパイオニアになりうる。

マイノリティだからこそのレアリティをうまくつかっていきたい。

とはいうものの、それは現時点における自分なりの答えにすぎず、人生の通過点におけるひとつの解答例にすぎない。

ただ、それぞれ違う背景がある人間同士、異なる価値観を知ることが、自分の人生を豊かにしていることは間違いないと、自信をもっていえる。

すべてをうけいれるわけではなく、互いに興味をもつこと。

相手の発言が理解できないときの返事を「わからない。」から「あ、それおもしろい!」に変えるだけでも見えなかったものがみえるようになる。