世界を斜め下からながめてみるのも悪くないのです。

人とは違う感じ方。違うからこそおもそろい。

『私はこう思いますが、あなたはどうお・・・・・』「ばーか」のはなし。

もやもやしたので書いてみる。

ぜひ最後まで読んでほしい。

 

http://news.i-cybernet.com/news-id73678.html

間違っているだろうか。

 

途中で混乱しないよう、まずはじめに自分の立場を示しておく。

 

私は堀江氏と同意見である。

 

様々な意見のなかの一つとして聞いてほしい。

 

まず、

障害者の中でも自分の能力や特性を理解し、自分に合った働き方で価値を生み出している人はたくさんいる。それについてはだれも口をはさむ余地はないと思う。

 

また、働きたい障害者もたくさんいるだろう。

そのとき、一度立ち返らなければならないのは『働く』とはどういうことなのかという根本的なシステムの再確認である。

「働く」というのは使用者と労働者間の契約であり、自分のアクションがもたらした価値の対価を受け取ることで成立する。

 

多くの場合で人はお金をもらえるから働いている。それは自分の生活を守るためであったり、自分の物的欲求を満たすための手段としての労働行為である。

 

これらとは違うパターンで確かに存在するのは、働くという行為に付加されうる

、充実感や達成感、社会にとって、自分が必要な人間であるという自己肯定感を高めるツールととらえている人たちである。

その傾向は社会的弱者とされる障害者につよくあらわれているように思う。

ここで注意したいのは、

働くことに意味を感じているのか

働かないことで居場所がなくなることに対する恐怖なのか

 

個人的には後者のほうが多いように感じる。

それぞれのスタンスがあいまいであるからこそ

いろんな意見を交えながら考えていく必要がある。

 

この件に関しては、

『無理して働かなくてもいい』という選択肢があるだけで救われる人が多いように思う。

 

この内容に関しても深める余地は大いにあると思うが、

今回これを書こうと思ったもやもやの所在は、

この記事に対するコメントや反応の内容についてである。

 

見たところ反応の9割近くは堀江氏の人格批判であった。

 

彼は顔も名前も社会的に認知されている立場で、堂々と自分の意見を発信している。

むしろ今回の件は『感情を切り離して考えたときに浮き彫りとなる現状システムの矛盾点と、仮定に基づく問題提起』ととらえるべきである。

 

これまで暗黙の了解として目をそらしてきた現実と向き合うべき時が来ていると思う。

考えを発信している人に対して、内容に触れずに罵ることはとても失礼なことだとおもうし、せっかくの議論のチャンスがただの悪口大会になっていしまっているのはかなしいことだ。

この件に限らず、最近よく思うのは一緒に考えることも、話し合いをすることもできない人が多い…

というよりその意思がそもそも欠如しているのではないか。

 

私は話合いがしたい。

 

つたわるかな。

つたわるといいな。

 

議論しようぜ。ひとつひとつかんがえていこうよ。

 

人の主張を聞こうとしない社会に未来はない。

一方的な批判は何も生まない。

 

何かを守るふりして

思考を停止している。

みんなでかんがえていこうよ。

利己的な希望を共通のビジョンとして。

私は戦争はしたくない。

利己的です。わかっています。

私は私が大事だし、

まわりには素敵な人たちがたくさんいる。


それはきっと、みんな同じ。



私と同じように言葉にならないモヤモヤをかみしめる人も


積極的に声をあげている若者たちも。


もちろん総理大臣にもきっと守らないといけないものがある。


戦後70年を迎えられるのは
憲法が「存在している」からじゃなくて

どんなに批判され、たたかれても
その要所要所で、適切な選択をしてきたからじゃないのかな。振り回されずに決断してきたからじゃないのかな。

私たちはまずこの70年に敬意をはらい、感謝をのべるべきだと思う。

政治家は預言者じゃないし、占い師じゃない。

間違えることはあるよ。

でも、私たちの見ていない世界を、自分で見て、考えてる。


八方美人がアイデンティティーの、嫌われないように空気をよみたがる日本人らしさを押し殺して、嫌われてでも決定を下せる人しか、総理大臣になんてなれない。

代表者を信用できないチームは崩壊する。


彼を言葉で傷つけることにどれだけの価値があるのだろう。

私たちは問題の本質をどれだけ理解しているだろうか。

ずっと答えを探していたけど

私の個人的なスタンスは決まったよ。

私は彼を信じて、黙って応援しようと思う。


みんな自信がない。
批判が提案に繋がらないのは、
自分の責任になるのが嫌だからだろう。


もう言葉で罵りあってあげあしとりあうのやめませんか。

みんなで進もうよ。

信じてみようよ。

応援しようよ。

もし代表に届くならひとつだけ伝えたいことがある。


いままで無関心だと思っていた若者達が、こんなにも真剣に考え、こんなにも積極的にうごいているのです。

私たちは戦争をなくすために、世界に訴えかける覚悟はあります。

「被爆国日本」

若者たちもその意味を


その役割をちゃんと理解しているのです。



もちろんわからないことだらけです。

だからこそおしえてほしい。

いまはおしえられないならごまかさないでそういってほしい。

自信をもって。進んでいけばいい。




私は戦争はしたくない。


私たちに出来ること。


敬意と感謝。

信頼とおうえん。

平和ボケの話

[戦争をしない]

これには2つの手段があります。

ひとつめは
「不関与による孤立」

それは国際社会から脱することを意味します。

いまでも世界のあちこちで戦争が起きています。
日本人はそれをリアルにイメージできません。

[日本の決意]
だけでは戦争はなくなりません。

国際社会の一員である以上、
世界のどこかで起きている戦争は
自分事のはずです。

日本は70年間、戦争をしていない。
ほんとにそうでしょうか。

すごく嫌な言い方をすれば

70年間「目をそらしてきた」のではないでしょうか。

ほんとに戦争をしない覚悟があるなら

いま戦争が存在している国際社会と縁を切る必要があると思うのです。

こうすれば、本当の意味で[戦争をしない国]になるかもしれません。


もうひとつの選択肢は

「非暴力による仲裁」です。

これにはリスクと責任がともないます。

国際社会の中で説得力をもっている必要があります。

ただ、唯一の被爆国である日本が責任を果たすとすれば、自分たちが二度と戦争に巻き込まれない方法を議論するより、いま戦争が存在している国際社会に発信し、話し合いで解決できないことを、血を流さないで決める手段を提案することだとおもいます。

極端な話をすれば、間に入って
「戦争は命がもったいないので、ジャンケンできめませんか?」
と胸を張っていっていくことだとおもうのです。



後者は時間がかかります。
そのためにいまどんな動きかたをするのが適切なのか、私にはわかりません。

だから私は代表者を信じて任せようと思います。

これはあくまでも個人的なスタンスです。



"どこかで飛行機が墜落します。
日本人犠牲者は0人です。

ほっと胸をなでおろします

結局何人死んだんだっけ。

しりません。日本人は無事です。"




こんなのは嫌なのです。


いま若者が真剣に考え
自分たちの知らない戦争に、興味をもっていること。
声をあげて、できることを形にしよう動き始めたこと。

一つのステップとして、価値のあることだとおもいます。


しかしながらメディアにとりあげられる発信の多くが一貫した批判であることや、
選ばれる言葉が時に暴力てきであることについてとても悲しくおもいます。<現状を希望に変えていくために>

・若者が考え、動こうとする姿勢を評価し認めること

・一切の批判をやめ、提案として発信すること

・失敗や失言に寛容になること


揚げ足とって、ののしりあっても戦争はなくならないとおもうのです。

みんなで一度深呼吸をしませんか。




世界中が誇りをもって平和ボケできますように。

幸せのつかまえかた。

みんな疲れてるなー。

あちらこちらで子どもの泣き声と、

大人の怒鳴り声。

舌打ちとためいき。


幸せってなんだろうとか、

自分はなにがしたいんだろうとか、

そんな大事なこと忘れちゃうくらい
自分を守ることに必死だ。

だから、誰かのせいにしたがるし、悪者を決めたがる。


いらいらいらいらいらいらいら・・・・・。



そんなときもあるよ。
人間だもんね。しょうがないよ。


とりあえず、一度深呼吸しませんか。

そんで「ヘヘっ」と鼻で笑ったあとに

おおげさにフゥーといきはいて、

ここぞとばかりにこう唱えます。
「あーあ。しあわせ、しあわせ。」


きっといいことあるよ。


こんな時代だから、いまだからこそ、
まずは自分のしあわせに気づくとこからはじめよう。

そしたらきっと、もっといいアイデアがうかぶって。



今日も、すんごくあついけども、

今日も私はしあわせです。










・・・・・・・・・ヘヘっ。

戦争しないための戦争。

わたしたちが知っていることは世の中のほんの一部にすぎない。
なにが正しくて、なにが間違っているのかなどわからないし、一人ひとり見えかたも感じかたも違う。
主張と批判は違う。提案のない一方的な批判など誰の心にも響かないし、相手の主張に耳を傾けられない人の主張には説得力などない。
お互いに相手のあげあしをとるだけでは、論点はずれていく一方だし、子どもの喧嘩みたいないたちごっこ。



このままでは戦争しないために戦争がおきそうだ。

戦争の悲惨さを掲げ、戦争反対と叫ぶ前になぜ戦争がおきるのか、その本質に向き合うべきだと思う。

変わるべきは自分たちだ。
いまの日本の色はおかしい。

個人的には攻撃的、威圧的なデモやスピーチは好きではない。

けれど、それに対する暴言的な反論はもっと苦しい。

平和は勝ち取るものじゃない。
共に考えるものだ。

言葉は人を傷つける。
立派な凶器だ。

それでも伝えなきゃいけなくて、
そうでなければ変わらないなら


守るためには仕方ないかな






それが戦争です。

残念なことに戦争ははじまってる。


繰り返してはいけないのは
戦争そのものというより


そこにいたる経緯だ。

少年が車椅子のひとをみて、かわいそうだとかんじた。という事実

とある夕暮れ時の話である、

はじめて訪れる場所だったので、ぶらぶら散歩しながら帰ろうという、私のなかではよくあるシチュエーションである。

向かってみぎてに小さな公園と小学生がちらほらと。

あー。いい雰囲気ー。

素敵な気分。ここまでは。


小学生がわたしにきづく。



あ、車椅子だ。

"かわいそっ"











ん?

まてーい。

あまりに自然にいうものだから、通過してしまった。


知り合いの女の子もおなじようなこといわれたっていってたな。

これか。

なるほど。なるほど。


こんなに楽しんで生きてるのに。

こんなにきもち良さそうに風を切っているのに。

彼の目には「かわいそう」とうつったのか。

すごいさわやかにモヤッとー。


ここから個人的な分析と今後の展望である。

登場人物はふたり。少年と、さわやか車椅子野郎(髭)。

今回のケースでは、被害者も加害者もおらず、少年の発信した"感想"に、髭車椅子野郎がちょっとだけもやーっとしだけなのだ。

なぜ、もやーとするのかを考えてみたところ、



あ、

そういえばツッコミできてない!!


"いやいや、 かわいそっ!"じゃねーし。

のタイミングのがしたー。




ツッコミそこなってるー。


つまり、"かわいそう"に違和感を感じながら、とっさに伝えられなかったことにモヤモヤしているのである。

そして、自分がかわいそうではないことに確信を持っているのに、少年にそれを伝
える言葉に自信がないのだ。

あらためて考えてみると少年はなにもまちがっていない。

ほんとの意図がどこにあるかは別として、彼は自分の感じたことを声に出しただけだ。

そして、彼が発信した"かわいそう"はそもそも悪口ではない。
むしろ、同情に基づく思いやりの言葉だ。

髭野郎が自分をどのように見てほしいかとは関係ない。

結果てきに少年が"かわいそう"と判断したことが、予想外で不本意であった、というそれだけこと。

それは、つまり少年は自分が歩けるという状況、当たり前のことがありがたいことだと、気づいていると、とらえることができているのかもしれないし、

そもそも学校での道徳教育が、困っているひとを見かけたら自分から声をかけましょう、とか優先席、エレベーターは必要としている人に譲りましょう、のように、相手が"自分よりかわいそうかどうか"で判断させるものになっている節がある。

考えれば考えるほど障害者側の主張の矛盾がきになってしまうし、もっともっと、いろんな角度から議論されていく必要があるとおもう。



そんなこんなを考えながら次おなじ場面にあったらどうしようか。作戦ねりねり。

少年を論破しても意味がない。

一緒にかんがえたいのだ。

少年よ。

きっかけをありがとう。

いろんな人に考えてほしいし、
いろんな人と話したい。

迷子ひも論争への違和感

子供にひもつけて安全確保。

いろんな意見があるみたいだが。

見た目的に違和感あるのは否めないけど、

それって当たり前。

いままでなかったものだから。

「いぬかよ!」

ていうのは、どういう意味なんだろうか。

批判ではなく、感想??つっこみ?

問題の所在がわからないなと。


ニーズがあるから、売れてるわけだし

必要ないひとはつかわない。

便利かどうか
安全かどうか
子供がいやがっていないか

それぞれの家族に
それぞれのやり方があって、

それぞれの感じかたに基づいて
それぞれが選べばいい。

なんにしてもそうだけど、

自分の考えは自由に発信すればいい。

「わたしはこうおもう」

他人の考えを否定するのは無意味だ。

「わたしの考えとはちがうけど、そういう考え方もあるんだね」

それでいいじゃん。

なんか、危険とか、よくない理由があるならそれは大事な判断基準になるから
ちゃんと発信すればいい。


なんで論破しようとするかな。

時代は変わるし

はじめから正解なんてないのに。


迷子ひも論争
http://tsuisoku.com/archives/45216584.html